【主日礼拝メッセ−ジ】                            
2006年7月23日   
散らされた人々
使徒言行録11章19-26節
高橋淑郎牧師 

当時このシリア州アンティオキアはローマ、アレキサンドリアと並ぶ世界三大マンモス国際都市で名を馳せていました。この大都市にキリストの教会が生まれると、たちまち町中の人々の関心を集め、教会に出入りする人たちを見て、彼らを「クリスチャン」と呼ぶようになったということです。その熱心な教会生活と積極的な伝道姿勢、それに地域社会に対する純粋な愛に基づくかかわり方を見て、半ば敬意を表して、また半ば揶揄する(からかう)ように、この人々をそう呼んだのです。生まれて幾日もたたない教会が、これほど世間に注目されていたとは聖霊の働きという以外にありません。彼らキリスト者がこの大都市の雑踏の中で、また政治的に計り知れない力の前でも埋没してしまうような信仰ではなかったということです。

わたしたちもまた、毎週の礼拝で信仰の養いを頂き、そして世に散らされて行きます。皆さんが散らされて行くところは決して平凡な日々を約束してくれるものではないでしょう。そして皆さんの背中からも、半分は尊敬をもって、半分はからかい半分に、皆さんのことを「クリスチャン」と呼ぶ声が聞こえてくることでしょう。周囲がどのような思いであなたがたをクリスチャンと呼ぼうが、皆さんはこの呼び名に誇りを持つことです。なぜならこの呼び名は人間から与えられたものではなく、聖霊なる神から賜った呼び名なのですから。どこに散らされてもあなた方の帰ってくる場は失われてはいません。教会こそあなたの帰るべき場所です。教会こそ傷を癒していただき、涙を拭っていただき、わたしたちの国籍は天にあることを確認させていただける場なのです。そしてまた新しい命と力を受けてこの世に散らされ、遣わされて行くのです。