【主日礼拝メッセ−ジ】 
平和を覚える礼拝                           
2006年8月13日   
栄 光 を 神 に」
使徒言行録12章20-25節
高橋淑郎牧師 

ティルス、シドンの人々とエルサレム教会の人々が大飢饉を乗り切る為に何をしたかは余りにも対照的です。ティルス、シドンの人々は自分たちの胃袋を満たすためにヘロデ王に媚(こ)びへつらい、神と崇めました。目的のためには魂さえ売ることを彼らは躊躇(ちゅうちょ)しませんでした。「これは神の声だ。人間の声ではない」という叫びは、ただ一時の思い付きから出たお世辞でしょうが、これははっきり言って偶像礼拝そのものなのです。

一方同じようにエルサレムの教会でも多くの人々が飢饉に苦しんでいました。しかし、彼らはこの世の権力者に擦(す)り寄ることをしません。むしろ、置かれている実情を率直に神に訴え、同時に信仰の友である地方の教会に呼びかけました。異邦人の教会はこのニュースを聞いたとき、直ちに清い愛をもってエルサレムの教会への援助を申し出、実行しました。こうして迫害と貧しさの中でも教会は着実に成長していったというのです。

今日戦争や紛争が絶えません。民族紛争とか、宗教戦争と言われていますが、本当のところ持つ者と持たぬ者とのギャップが生んだ結果ではないでしょうか。持つ者は乏しい者が最後の望みとしている資源までも奪い取り、生態系を狂わせ、環境を破壊しているのです。豊かな者、力ある者がそういう時代にしてしまっているのです。

「武力によらず、権力によらず、ただ神の霊によって・・・」(ゼカリヤ書4:6)とは、十字架に御自分の命までも捨てて、神との平和を打ち立ててくださったキリストの愛を預言したものです。使徒パウロはこれを受けて、「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」(コリント8:14)と教えています。